☆舞踊日和☆彡


このページでは、舞姫が舞台に出演する際に、オフラインで交流を持つお友達や知人宛にお送りするDM(チラシに自作の案内状を添えて郵送します)に、気が向いたときのみ不定期に掲載しておりますエッセイ『舞踊日和』を紹介しております。

★2011年8月28日 「2011 JAZZ DANCE NOW」
★2008年11月24日 塚田ワークスタジオ発表会「goose bumps − 4」
★2007年2月17日・18日 北海道ジャズダンス協会公演「sympathy 〜共鳴〜」
★2006年7月1日・2日 「第25回 JAZZ DANCE NOW‘06」
★2005年8月7日 塚田ワークスタジオ発表会「goose bumps − まよい犬2005」
★2004年11月13日・14日 塚田ワークスタジオ発表会「EVERYBODY おどりま SHOW! vol.10」
★2004年5月8日 塚田ワークスタジオ自主企画公演「Lab.2nd STEPS − 若芽」
★2003年7月5日・6日 「第22回 JAZZ DANCE NOW‘03」
★2001年11月4日 塚田ワークスタジオ発表会「EVERYBODY おどりま SHOW! vol.7」
★2001年3月4日 北の舞台芸術祭共催 北海道ジャズダンス協会公演「TOMORROW」
★2000年11月5日 塚田ワークスタジオ発表会「EVERYBODY おどりま SHOW! vol.6」
◎番外編 『舞踊日和』の原点とは?(※06年5月30日(火)付『お気楽日記』より転載および加筆・修正)






“卵巣腫瘍”摘出手術を受けるために舞姫が入院したのは、昨年秋のスタジオ発表会(「思い出ドキュメント」は、こちら)が無事終了して程なくのこと。持病の股関節疾患ではなく、思いもよらぬ婦人科疾患で、生まれて初めての入院&手術を経験する羽目になった。

疾患発覚は昨年の夏。腫瘍は既に巨大サイズと化しており、このままでは命に係わる“茎捻転”や“破裂”などの危険性もあるという。主治医からは早急の手術を勧められたが、当時スタジオでは既に発表会の稽古に突入しており、これを蹴ることのできなかった舞姫は、手術の時期を遅らせてもらえるよう、主治医に頼み込んだ。

「次の機会があるでしょう!」…診察室まで一緒に付き添ってきた母は、そう言って泣いた。けど、持病の股関節疾患や今回の卵巣腫瘍のことを抜きにして考えても、高齢ダンサーである自分に、もう“次”は巡ってこないかもしれない。婦人科の主治医は舞姫の気持ちに理解を示し、舞台を無事に終えるまで、最善を尽くしてくれた。

幸い、大事に至ることなく無事に発表会の舞台を務めた舞姫は、遂に手術を迎えることとなった。手術を終えて病棟に戻り、諸々の医療機器に身体を縛られた状態で身動き取れずに一昼夜を過ごした悪夢のような一日は、生涯忘れられない。「このままで終わるもんか、絶対また舞台に立つんだ!」…そう固く心に誓った。

最も不安だったのは、退院後の復帰。舞姫は、既に40代半ばの高齢ダンサーである。たとえ身体能力の回復が早い“腹腔鏡下手術”とはいえ、そう簡単にはリカバリーできない筈。ところが、予測に反して回復は順調で、退院後1ヶ月満たないうちに、舞姫はスタジオ復帰を果たすことができた。もう再びスタジオの敷居を跨げなくなるかもしれないことも覚悟しただけに、復帰初日のレッスンは、めちゃくちゃ楽しかった。

無論、自身も予測していなかった早期復帰を実現させたのは、本来であれば婦人科疾患とはそれほど関わりが深くないであろう持病の股関節疾患のリハビリ通院で培った知識やノウハウであったことは、言うまでもない。

これまでの通院で、リハビリの基礎知識や要領などは既に身に付いていたし、整形外科の主治医や担当PTの適切な指導で術後のリハビリにも迷わず取り組むことができた。これがなければ自分は右も左も判らぬまま路頭に迷っていたかもしれないし、お腹の殆どを占拠するほどに巨大化した腫瘍を、身体能力の回復が早い“腹腔鏡下手術”で摘出してくれた婦人科の主治医の努力も、舞姫は無駄にしていたかもしれない。

かくして、無事スタジオ復帰を成し遂げた舞姫は、毎年恒例の『ジャズダンス・ナウ』の季節を迎え、先生達やチームメイト達と一緒に稽古に励む日々を過ごしている。退院直後に誓った「真の到達点は、次に舞台に立つとき」という目標も、もうすぐ果たせそうだ。疾患発覚から現在に至るまで、舞姫を支えてくれた多くの人達に、心から感謝したい。

(2011年8月28日 「2011 JAZZ DANCE NOW」DMより)

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股関節の持病が発覚したのは、今年(08年)の春。ちょうどスタジオでは、夏恒例の「ジャズダンス・ナウ」(「思い出ドキュメント」は、こちら)の稽古中という時期だった。若い頃から尋常でないくらい硬く、ちょっとでも無茶をするとすぐに傷めてきた股関節に不安を抱き、両親の掛かり付けである某整形外科を訪ねたわけだったが、やはり“爆弾”は、ここに仕組まれていた。

病名は、先天性の“臼蓋形成不全”。大腿骨頭を支える屋根である“臼蓋”(きゅうがい)と呼ばれる箇所の形状が不完全なため、股関節痛を起こすという病気である。治療法としては、手術か保存療法で症状の緩和を試みる以外に方法はなく、残念ながら完治は不可で、一生付き合っていかなくてはならない病気だそうだ。

耳慣れない病名に、ネットでいろいろと調べてみたところ、“人工関節の置換手術”だの、“障害者手帳の取得が可能”だの、“ダンスなどと以ての外!”だの、次から次へと眼に飛び込んでくる怖い情報の数々に、小心者の舞姫は、うろたえた。

無論、この病気に関する禁止事項を寄せ集めたか如くの“ダンス”という分野自体、あまりにも股関節への負担が大きく、既にダンスをたしなむ者の場合、そのジャンルを問わず辞めるよう促す医師も多いという。実際に舞姫も、情報収集を続けるなかで、病気の発覚のため、泣く泣くダンスを諦めたとういうかたの話を、数多く耳にした。

たったひとりの医師の診断を鵜呑みにせず、他の病院でも診察を…という思いは勿論あった。けど、もし最初の病院よりも深刻な診断を受け、手術などを強要されるようなことになれば、きっと舞台には立てなくなる…その恐怖感に元来の横着さが追い討ちを掛け、夏の「ジャズ・ナウ」が無事に済んで以降も舞姫の足は、おのずと病院から遠のいた。

幸い、ようやく意を決したセカンド・オピニオンで、信頼できる病院と巡りあうことができ、週1回ペースでのリハビリ通院を勧められた舞姫は、これまで通りダンスを続ける傍ら治療を受けることとなった。必須項目は、股関節周囲の筋力および柔軟性の強化。手術ではなく、リハビリによる保存療法で歩行時や運動時に伴う苦痛の緩和を試みる。

かくして“未知の世界”だったリハビリ室の敷居をまたいだ舞姫は、ここで得られるダンスの技術にも反映可能な知識や情報の数々に感銘を受け、現在に至るまで楽しく通院を続けているが、あいにく効果はなかなか現れない。無論この類のリハビリに即効性がないことは承知していたが、思うように動いてくれない己の身体に、メンタルの弱い舞姫は、苛立たずにはいられなかった。

確かに、症状の改善に必要な筋力や柔軟性は少しずつ向上しつつある。ただ、いくら物理的な身体能力を鍛えたところで、それらを“制御”できなければ、意味はない。その“結界”を打ち砕くために必要な“魔法の武器”は、確かにダウンロードした筈。けど、インストールには至らない。脳ミソと股関節との間の“接続障害”は、いまだ改善されず、舞姫の発するコマンドは「実行できません!」と跳ね返されてくる。哀しい。

そんなわけで、リハビリと同時並行で稽古を続けてきた発表会も、もうすぐ本番の日を迎える。当然、リハビリで得た“魔法の武器”は、まだ使える状態ではない。ただ、己の股関節に存在する“爆弾”と向き合いながらダンスを続ける道を選んだ舞姫は、きっとこれからも、その“魔法の武器”の取扱説明書と格闘を続けながら舞台に立ち続けていくと思う。いつの日か、その“結界”を打破するために!

(2008年11月24日 塚田ワークスタジオ発表会「goose bumps − 4」DMより)

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◎前代未聞の珍事?!(※『お気楽日記』07年1月16日(火)付より転載および加筆・修正)

先達てサイト更新を行った際に、「舞台情報」のページ(←「お気楽日記」への掲載当時は、北海道JAZZ DANCE協会公演『sympathy 〜共鳴〜』の稽古中で、「舞台情報」へも、この公演の告知を掲載しておりました。公演のほうは無事に終了済みで、情報も既に「過去の舞台記録」内の'07年のページへ移行済みです)に、舞姫の手持ちのチケットも残りわずかとなりました…という旨のお知らせを掲載すると同時に、「舞姫のボード」のほうへも同様の旨のお知らせの書き込みをさせて頂いたところ、思いのほか多くのみなさんより問い合わせを頂きまして、おかげさまで舞姫の手持ちのチケットも、すべて完売となりました。

今回の公演は、北海道外からも、幅広いジャンルで活躍する著名なダンサーさん数名を客演に招くというのもあって、以前から前評判も高く、話題性も大きかったわけですが、それにしても自分の出演する公演のチケットが、まだ本番当日は1ヶ月以上も先という時点で、既にソールドアウト状態というのは、舞姫にとっても“前代未聞の珍事”なので、その反響の大きさに、いささか驚いている次第です。(・o・)

さて、通常であれば、舞姫は自分が舞台に立つ際には、自作の案内文にフライヤーを添えたオリジナルのDMを、おもにオフの世界で交流のある道内在住の友達や知人宛に、だいたい本番2週間前あたりに届くよう郵送することを常としてきたわけですが、今回の場合は肝心なチケットが既に完売状態ですから、もしDMを受け取った友達から問い合わせを頂いても、当然お売りするチケットが“無い”わけでして(爆)、まぁDM発送の必然性が消滅してしまったということで、今回はナシにしたいと思っています。

ちなみにこのDM、実際に舞姫の舞台を観に来て頂けるかどうかは別として、「いま舞姫は、こんなことやってるよ〜♪」みたいな感じの“近況報告”の意味合いも兼ねて発送してきたものでもありましたし、友達や知人のなかには、パソコン操作の心得を持たず、ネット閲覧の習慣のない者も若干名いるわけで、そんなこんなもあって、このDM発送作業は舞姫にとって、しばらく会う機会の作れなかった友達や知人に自分の近況を報告できる、貴重な機会でもあったわけなので、今回は巷でも話題性の大きい公演に出演させて頂くだけに、そのご報告をDM発送という形でできないというのは、なんとも残念な次第です。

勿論、この年明けに巷のチケット完売状態を知らされるまでは、舞姫自身もこんな事態になるとは想像だにせず(以前から売行き好調という話は耳に挟んでいましたが、それにしても北海道在住のアマチュアダンサーが主体のローカルな公演で、まさか本番1ヶ月も前にしてチケット完売してしまうとは、夢にも思わなかったので…汗)、いつものようにオリジナルのDM発送もするつもりで、それに伴って久し振りに、この「舞踊日和」のページの更新も考えていたので、どんな文書を執筆しようかと、いろいろ思いを巡らせていた舞姫にとっては、ちょっと淋しい気もしているわけですね。まぁ、DM発送の必要が無くなったぶん、通信費など諸々の経費の節約にはなるので、薄給のOLにとっては、ある意味有り難いことではあるのですが…。(^^;)

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現在、その存続が危ぶまれている北海道厚生年金会館にて、毎年夏になると上演されてきました『ジャズダンス・ナウ』も、今年で25回目を迎えました。
昨年、舞姫の所属する塚田ワークスタジオでは、スタジオ発表会の上演が時期的に重なってしまい、この毎年恒例の公演への出演を残念ながら辞退させて頂きました。ウチのスタジオでは、この公演に、初回から一昨年の第23回に至るまで、毎年欠かさず出演し続けた“皆勤記録”を保持していたので、その記録が途絶えてしまうことは本当に惜しかったのですが、まぁ仕方がありません。
そして迎えた今年、ウチのスタジオとしても思い入れの深いこの公演ですから、やはり出演しようという話にまとまりました。2年振りの出演となるこの公演に、チームメイト一同、新鮮な気持ちで日々の稽古に精進しています。
思い起こせば、この「ジャズ・ナウ」に舞姫が初めて出演させて頂いたのは、いまから12年前の1994年、29歳の頃でした。札幌市内およびその近郊を中心に、全道各地のさまざまなジャズダンススタジオから、レベルの高いダンサー達が多数集い開催される、道内で最も大規模なジャズダンスの祭典であるこの公演、まだこの舞台の世界に入って間もない駆け出しだった頃から(いまだ“駆け出し”であるという話もあるが…爆)まるでスポーツ選手がオリンピックや世界選手権に憧れるが如く、憧れの思いを抱き続けてきた舞姫は、初出演が決まった12年前の当時、夢だった憧れの桧舞台への出演に、とてもわくわくどきどきしながら臨んだことを記憶しています。
そのとき以来、舞姫も毎年ほんとうに楽しみに出演させて頂き、普段は遭遇する機会の少ない他スタジオ所属のダンサーのみなさんの、レベルの高い作品の数々にも、新鮮な刺激を受けさせて頂いてきました。また、出演を辞退させて頂いた昨年は、久し振りにこの公演を客席で鑑賞し、いつもとは違った視点で、さまざまなことを感じさせて頂きました。
舞姫も、2年振りにこの公演に出演します。初めてこの桧舞台に立ち、舞台にダンスの神様が降臨した12年前のあの当時の記憶が懐かしく蘇ってきます。そして今年も、この素敵な舞台に、きっとダンスの神様が降臨することを願って…。♪

(2006年7月1日・2日 「第25回 JAZZ DANCE NOW‘06」DMより)

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今回の発表会では、新しい試みとして、かつてスタジオで上演した懐かしい作品である「まよい犬」を再演することになりました。この作品、初演は19年前の1986年で、この作品のために作曲されたオリジナル音楽を生バンドが演奏するなかでダンサー達が踊るという、当時としては画期的な演出による作品でした。今回は、さすがに生バンドによる演奏は入りませんが、物語性や配役などは初演時のものをそのまま継承しながら、音楽の選曲や振付・構成などについては現代的なテイストを加えて一新する…という、いわば“リメイク版”で臨みます。名付けて「まよい犬2005」です。
ちなみに初演時の1986年、舞姫は21歳。当時、音楽の大好きだった舞姫は、将来は音楽業界で仕事をすることを夢見て、東京の音響専門学校へ進学。「卒業したら札幌へ戻ってきて、就職は札幌で探すこと」という両親との約束のもと、卒業後は札幌へ戻りますが、いまでこそ、その筋の業界には女性もたくさん進出していますが、舞姫が専門学校を卒業した当時は「女なんか使いモノにならん」と言われて、その筋の業界では相手にもしてもらえなかった時代で、ましてや札幌での就職活動は難航。それでも諦めきれず、音楽関連企業での仕事を探しつつ、アルバイトで何とか食いつないでいた…というのが、21歳くらいの頃でした。その後、音楽業界への夢へ見切りを付け一般企業へと就職し、普通のOLと化してしまった舞姫でしたが、それから数年後、職場と自宅とを往復するのみの平坦な生活に物足りなさを感じていたときに、ジャズダンスや演劇と出会い、アマチュアとして舞台に関わるようになっていったのでした。
蛇足ですが、専門学校時代に授業で勉強した舞台専門用語などの知識は、アマチュアとして舞台に関わるようになってから、おおいに重宝しました。皮肉なものです。

この「まよい犬」の初演時の1986年が、どんな年だったか、おもな出来事を少々調べてみました。

◎「男女雇用均等法」施行
◎たけし軍団が、講談社襲撃事件を起こし、逮捕。
◎ハレー彗星が76年振りに大接近。
◎チャールズ皇太子とダイアナ姫が来日。
◎青函トンネルの本州と北海道が結合。

…などなど。♪

(2005年8月7日 塚田ワークスタジオ発表会「goose bumps − まよい犬2005」DMより)

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青天の霹靂のような話だが、今年の発表会で舞姫は、こともあろうに振付のお手伝いをさせて頂くことになった。勿論、舞台作品の振付など手掛けるのは、生まれて初めてのことである。右も左も判らない。さぁ、どーしよう!?
無論、舞姫にとっても、今回のことは一大決心であったが、このことを決断した塚田先生にとっても、清水の舞台から飛び降りるが如くの覚悟だったと思う。この舞姫のことを、振付など手掛けたことのない初心者であること充分承知の上で、舞台作品の振付を任せるなんて、あまりにも無謀である。
かくしてチームメイト総勢17名を乗せた船は、舞姫の指揮のもと青く果てしない海へと出航した。もう今更、後戻りすることは出来ない。
忘れもしない、舞姫の作品の初めての稽古日。いつもレッスンの際に先生達が私達を指導してくれるときに立つ、あの鏡の前のセンターの位置、あそこに立つことが、こんなに緊張することだとは舞姫は想像もしなかった。脚が震え、自分の意図をうまく言葉で説明できず、心臓が口から飛び出すような思いがした。
それはそれは信じられない光景だった。未熟者の舞姫なんかより、ずっと高い位置にいる憧れの先生達が、チームの一員として、舞姫の考えた振付を踊り、不器用な舞姫の要領を得ない指示に従って動いてくれることなど、いったい誰が想像しただろう?若い学生ダンサー達もみんな、嫌な顔ひとつせず、舞姫の作品の為に協力してくれた。嬉しい。すごい嬉しい。
とにかくチームメイト達みんなで、至らない舞姫の為に精一杯尽くしてくれた。そのお陰で作品としての形もおおよそ整い、本番1週間前には総見が行われる予定だが、なんとか間に合いそうな感じである。舞姫の力じゃない。チームの皆のお陰である。言葉では表現し尽くせない程に、感謝の気持ちで一杯だ。未熟者の舞姫に、こんな無謀な挑戦をさせてくれる機会を作ってくれた塚田先生にも心から感謝したい。
港が視界に入るところまで、やっとこの船は辿り着いた。不慣れな舞姫の舵さばきで(?!)船酔いを起こしたチームメイトもいたであろう。申し訳ない。けど、この船旅も、もうすぐ終わるよ。舞姫の素敵なチームメイト達!港に着いたら、打ち上げで美味しいお酒を飲もう!

(2004年11月13日・14日 塚田ワークスタジオ発表会「EVERYBODY おどりま SHOW! vol.10」DMより)

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「塚田ワークスタジオ」この略称で、内輪の人達の間では殆ど通用しますが、「塚田ジャズバレエ・ワークスタジオ」こちらがウチのスタジオの正式名称です。この紛らわしい名称のためか、ウチのスタジオを、バレエスタジオと勘違いなさっているかたも結構多いようなのですが、ウチは“ジャズダンス”スタジオなので、いわゆる“バレエ”はしません。「じゃあ“ジャズダンス”って、いったいどんな踊りなの?」と尋ねられると、はたしてどうやって説明したらよいものか、迷う部分もありますね。これを機会に、ジャズダンスの起源や歴史について、ちょっと勉強してみました。
ジャズダンスは、アフリカのダンスを起源とする、アメリカの黒人によって発達したダンスの一形式で、20世紀初頭、ジャズ音楽の誕生と同時期に自然発生的に生まれました。“ジャズダンス”という言葉が使われ始めたのは、1927年頃とされています。30年代後半、ブロードウェイ・ミュージカルに登場。以降、ショービジネスの世界に軸足を置き、発展しました。日本では、1970年頃に第一次ジャズダンスブームが到来し、全国各地に広まりました。
時代の先端のエンターテイメントや文化の融合した現在のジャズダンスに定義はありません。反対に型にはめないのがジャズダンスの良さ。時代によって様々なスタイルを生み出す「進化するダンス」なのです。クラシックバレエの技法を取り入れた優雅な踊りもしますし、ハウスやヒップホップなどの要素を取り入れたストリート系の踊りもします。自由な発想で、なんでもあり。それが“ジャズダンス”なのです。
さて、ウチのスタジオの名称である“ジャズバレエ”の語源については、私も詳しく聞いたわけではないので、定かではありませんが、その昔欧米諸国から日本へ、その類の舞踊が伝わってきたばかりの頃、まだ“ジャズダンス”という言葉が普及しておらず、その当時ハイカラな音楽であったジャズとバレエとをくっつけて“ジャズバレエ”と呼んでいた時期があったそうです。それが、そのままウチのスタジオの屋号になった、というわけです。その後、“ジャズダンス”という言葉が定着して、現在ではジャズバレエという言葉を使う者は殆どいなくなってしまいましたが、ウチのスタジオの名称は、その当時の名残なのでしょう。

(2004年5月8日 塚田ワークスタジオ自主企画公演「Lab.2nd STEPS − 若芽」DMより)

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初耳だ、と仰る方も多いかと思うが、若かりし学生時代、私はミュージシャン志望であった。舞台関係の友達や知人で、このことを知る者は意外と少ない。別に内緒にしていた訳ではない。たまたま話す機会が無かっただけである。
友達数人でバンドを組み、好きなアーティストの曲を演奏したり、自分達のオリジナル曲も多少は作った。校則の厳しいミッションスクールへ通っていた為、たいした活動は出来ず、学校祭や新入生歓迎会など発表の場は限られたが、それなりに楽しく、有意義な時を過ごしたように記憶している。舞台に立ち大勢の観客を前にして“何かをする”という快感を、私はこのときに覚えたのかもしれない。今から20年も前の話である。しかし、いま思えばあれが舞台人としての舞姫の“エピソード0”だったのだろう。
余談だが、当時の私は体育の成績も悪く、生粋の運動オンチな女の子だった。20年後、まさか自分がダンサーになっているなどとは、この頃の私には想像も付かなかっただろう。学生時代の友達は皆、いま私がダンスを嗜んでいる、と言うと驚き、なかには未だ信じてくれない者もいる。
師匠である塚田記久氏との出会いは今から11年前、体験レッスンで初めてスタジオを訪れたときである。彼のその長身は、身長149cmの小柄な私には、そびえ立つような大男に感じられた。「先生、大きいですね。身長何cmですか?」と私が尋ねると、彼はこう答えた「ん〜、ぼくはね、3m!」これが私と塚田先生との懐かしいファーストコンタクトである。あれから11年、今年もまた、私達はJAZZ−NOWの季節を迎える。

(2003年7月5日・6日 「第22回 JAZZ DANCE NOW‘03」DMより)

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ウチの塚田先生は現在5?歳。もし、普通に会社勤めをしていたら数年後には定年退職、という年齢だ。しかし、手前味噌になってしまうが、いい男である。高い身長、彫りの深い顔立ちは、まるで映画や舞台の世界にだけ住むカッコいい男優さんが、現実の世界にポン!と飛び出して来たかのような、浮き世離れした感がある。だが、これから先この浮き世離れした“いい男”は、どんな老紳士になっていくのだろう?近い将来、愛車に“もみじマーク”を貼って運転するようになり、やがて車の運転からも遠ざかって、市営の交通機関がタダで乗れる高齢者用パスを使って通勤するようになる塚田先生の姿なんぞ、想像したくない。いつまでも年齢を感じさせない、素敵な男性でいて欲しいものである。
数年後、塚田先生が60歳の誕生日を迎える暁にはスタジオの皆で、ぜひ還暦のお祝いをしてあげたい。そのときには赤いジャズダンスシューズをプレゼントして、それを履いてもらい、永遠に引退しないで踊り続けて頂こう、というもくろみである。ふっふっふっ…。

(2001年11月4日 塚田ワークスタジオ発表会「EVERYBODY おどりま SHOW! vol.7」DMより)

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仕事を終え、スタジオへ行き稽古着に着替えシューズを履く…普通のOLである舞姫から、アマチュアダンサーの舞姫に変身する瞬間である。
ウチのスタジオは元倉庫だった平屋建。あの外見からは、とてもジャズダンススタジオには見えないので、初めて訪ねる人はたいてい迷うらしい。夏は暑く冬は寒い。防音設備も何も整っていない為、夜遅くまで稽古をしていると近所から苦情が来る。更衣室なるものは存在せず、スタジオの片隅にカーテンで仕切れる一角があり、そこが女性の更衣スペース。無論、全員の着替えが終わって稽古が始まるとカーテンは除かれる。ちなみに男性陣の着替えは給湯室である。
数年前のある雨の日、いつものようにスタジオへ行くと、床の数ヵ所に洗面器が…どうやら雨漏りしたらしい。その日は雨水がぽたぽた落ちる音をBGに稽古をした。後日、修理代をケチったのか、塚田先生が自分で屋根に登って天井を直したらし、という話を聞くが、定かでは無い。
こうしてみると、このスタジオには何ひとつ取り柄の無いように感じられるかもしれないが、唯一自慢できるのが床で、ウチのスタジオの床には、とても柔らかく良質な素材が使われているので、激しい動きにも身体への負担が比較的軽いのだそうだ。これは他の場所を使って稽古をする機会があると、よく判る。余談だが月寒の某公共施設の床はとても固く、ここで稽古をすると、翌日足が痛くなったり、身体が妙に疲れたりする。やはりウチの床が、いちばんである。みなさんも、お気軽にスタジオを訪ね、体験レッスンで、ウチのスタジオの良質な床を実感されては如何?
こうして今日も舞姫は大きなバッグを持って家を出る。シューズや稽古着など“変身アイテム”を中に沢山詰め込んで…。舞姫の干支は巳。この2001年は年女である。稽古に精進して、飛躍の年にしたい、と感じる今日この頃である。

(2001年3月4日 北の舞台芸術祭共催 北海道ジャズダンス協会公演「TOMORROW」DMより)

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本職と稽古との両立は、アマチュア舞台人にとって永遠のテーマである。この舞姫も、仕事と稽古との両立には苦労が絶えない。稽古の無い日に出来る限り仕事を詰め、稽古のある日にはなるべく残業にならないよう心掛けてはいるが、多忙なときはなかなかそうも行かない。
大量の仕事に埋もれながら、稽古に遅れる旨を伝えようとスタジオに電話を入れ、よほど慌てていたのか、心の中でOLモードとダンサーモードがうまく切り替わらず「お世話になっておりま〜す!○○社の舞姫でございま〜す」と、うっかり言いそうになってしまったことも…スタジオに会社名を名乗って、どーするね?!最近になって、多忙な際は会社からスタジオ宛にFAXを送ることを思い付いた。これなら簡単だし煩わしい思いをせずに済む。以来、多忙な際は、もっぱらFAX連絡である。
こうして今日も仕事と稽古との両立に、悪戦苦闘する舞姫であった。

(2000年11月5日 塚田ワークスタジオ発表会「EVERYBODY おどりま SHOW! vol.6」DMより)

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◎番外編 『舞踊日和』の原点とは?『お気楽日記』06年5月30日(火)付より転載および加筆・修正

“筆まめ”な舞姫は、文書を作るのが大好きです。判りやすく要点をまとめ、手短な文に収めなきゃ…とは、いつも思うのですが、つい長くなってしまいます。スクロールバーが豆粒の如く小さくなるまで大量に書き綴ったメールが舞姫から届き、驚いた友達や知人も、きっと多いのではないでしょうか。まだメールが普及する以前だった“アナログ時代”から、手紙の類を書けば便箋5〜6枚は軽く超え、郵送で届いた封筒の分厚さに度肝を抜かれたかたも、当時は多くいらしたことと思います。

ダンスや演劇の世界と出会い、アマチュアとして舞台に関わるようになった舞姫は、この尋常ではない筆まめさ加減を生かし、いつの頃からか、自分が舞台に立つ機会には、オリジナルの案内文を作ってチラシに添え、DMとして友達や知人に郵送するようになりました。受け取られたかたから、「観に行くよ。がんばってね!」と連絡を頂いたり、あるいは残念ながら都合が付かず観に来られないかたからも、応援のリアクションを頂けることがあると、ほんとうに嬉しく思います。♪

さて、このサイトのなかに、『舞踊日和』というコンテンツがあります(←日記への掲載当時は、ここのページへの転載予定がなかったので、こんな表現になってますが、要は、このページのことですね)。最終更新が昨年8月のスタジオ発表会のときですから、それ以来1年近くも更新の機会がないまま、放ったらかし状態と化しているコンテンツなのですが…(恥)。ここは、筆まめな舞姫が、これまで舞台に出演する際に、友達や知人宛に郵送でお送りしてきたDMに、気が向いたときのみ不定期に添付してきた、ダンスにまつわる話題が中心のエッセイを掲載するコンテンツでして、日常の生活のなかで起こる出来事やスタジオでの稽古ネタなどを中心に書き綴ってきたこの日記のページとは、少々視点を変え、別スタンスという解釈のもとで設置したわけですが、舞姫がこのサイトを開設するよりも以前の“アナログ時代”に執筆した貴重な文書が公開されているコンテンツでもあるわけです。

横着者の舞姫ですから、この『舞踊日和』、ほんとうに“気が向いた”ときにしか執筆しません。余談ですが、昨年11月の某協会公演の際のDMでは、『舞踊日和』は面倒くさくて作りませんでした(爆)。こんな、気ままなスタンスだからこそ、サイトのコンテンツとしての更新も滞って、すっかり埃をかぶした状態となってしまうわけですが…。(^^;)

ちなみに、この『舞踊日和』をDMに添付する際の形式ですが、A4もしくはB5の用紙を横向き二つ折り型で使用し、時候の挨拶文で始まり、日時や会場所在地・チケット料金などの情報、そして「チケットご予約・お問い合わせは○○(←舞姫の本名)まで、お気軽にどうぞ」などという文言を綴った、ごく一般的なレイアウトの案内文が左半分、そして舞姫が独自の視点で書き綴ったエッセイである『舞踊日和』を右側のスペースへ配置する…といった形を現在はとっています。

なお、記念すべき初掲載となったのは、いまから6年前の00年11月に上演のスタジオ発表会の際に作成したDMでした。当時は、現在のような二つ折りレイアウトではなく、なんと“新聞”型でした。そもそも、この『舞踊日和』のアイデアの原点となったのは、朝日新聞に連載される「天声人語」などに代表される、新聞の朝刊第一面に掲載されるコラム記事(舞姫の地元紙である北海道新聞では「卓上四季」というコラムが連載されています)。こんな感じのコラム風に書き綴ったエッセイを、DMにくっつけたら面白いのでは…と思い立ち、どうせコラムを載せるのなら…と、上演の旨を知らせる大きな見出しの真下には縦書きの本文。そして右上の部分には「○○(←しつこいようですが、舞姫の本名です)新聞」という題字。さらに、いちばん下の部分には「見学随時。無料体験レッスンも有。お気軽にお越しください」などという宣伝文句を配したスタジオの“広告”を載せ(ちなみにエッセイを載せたのは、この広告の上の部分。文中の内容の区切りになる箇所に“▼”マークを付けて、ほんとうにそれらしく作りました)、新聞の第一面を可能な限り模したレイアウトにし、茶色いクラフト用紙を使って印刷し、いかにも新聞らしく仕上げたわけでした。

当時はワードのような便利なソフトもなく、愛機“OASYS”での完全手作りだったので、えらい苦労した記憶がありますが、完成した案内文に公演チラシを同封し、さっそく郵送したところ、そのあまりにも懲りすぎた仕上がりに「紛らわしい。どっちがチラシで、どっちが案内文だか判らない」と、受け取った友達や知人からは不評続きだったので(叩)、“新聞”型の案内文にしたのは結局このとき一度きりで、以降はシンプルな二つ折り形式に変更し、現在に至るというわけです。

このDM、だいたい本番当日の2週間前あたりに、みなさんのお手元に届くように郵送することを常としているのですが、稽古も追い込み体勢に入った某公演(この記事を日記に掲載した当時は「第25回 JAZZ DANCE NOW‘06」の稽古中で、この後に執筆しDMに添付した「舞踊日和」が、こちら)、ぼちぼちDM発送の準備にも取り掛からなければならない時期に差し掛かっています。今回は面倒くさがらずに『舞踊日和』も執筆し、それに伴い、サイト内のコンテンツとしての同ページも、久し振りに更新する予定です。と言っても、どんなことを書こうか、現時点で、な〜〜〜も考えてないのですが(をい!)、この日記とは別スタンスという解釈で設置しているからには、ひと味違った視点のエッセイが執筆できれば…と思います。

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